自分の生き方を考えるための日記

最大の読者が私だということを書き手の私は肝に銘じよ

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ITにおける離散化が強いる概念の離散化

SNSで「フォロワー」「友達」に登録するとき、「彼・彼女は友達なのか」と考える。もしくは、友達なのかどうか深く考えず、知り合った人は「友達」としてしまう。本来、ITが発達していなかった時代は、友達になる以前や、友達なのかはっきりしていない状態で、友達なのかどうかの結論を出せ!と第3者に迫られる場面はほとんど存在しなかった。その時代には、友達でない状態から友達になるまでの過程は連続的であった。お互いが、お互いにとってどういう存在であるのか、考えるための時間があった。環境があった。その過程で、「100%友達」とは言えなくても、連続的な状態を取るからこそ、「友達」でないことにそれほど抵抗はなかった。そもそも、相手がこちらを友達と思っているかどうかなど知りもえないし、相手が友達かどうか判断してるかどうかもわからなかった。「80%友達」と言うように、中途半端な状態も取れるわけであるから、その状態がどういう評価なのかもよく分からないし、気にすることでもなかった。ある場面では友達だし、ある時は他人のように振る舞うということもあった。以上のことはもちろん現代でも続いていることは多いとは思うが、ITがむやみに「友達」「フォロワー」というレッテルを知り合いに貼ることを強要したために、以前より有意に減っていると私は思う。特に、相手がどんな存在なのか考えるということ、そして、相手が友達だと思っていない状況を許容するということが、大事な役割を果たしていたと思うのに、現代ではそのような機会が減ってきている気がするのが残念である。

ここでも、「言葉」の問題に行き当たる。言葉は強い。連続的なものでも離散化して、固定してしまう。適切に使えば本当に心強いのだが、使いこなすことが難しい。

IT界は、言葉を リアルな世界での言葉の使われ方に敬意を払いながら 使いこなしていく必要があると思う。