自分の生き方を考えるための日記

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自己と甘えと、他者への頼り方

いま『「甘え」の構造(土居健郎)』を読んでいる。甘えについて彼なりの理解が書かれており、大筋としては同意できる内容である。そもそも「甘え」の観点に気づいたこと自体が素晴らしいのは作者(土居氏)も自覚している通りで、その喜びが書かれた本であり、(僕の読解能力からすれば)少々読みにくい本だなあと思いつつ読み進めているところである。

 

 

自己の定義について、私は以前記事にした(自分の定義。他者との境界 - 自分の生き方を考えるための日記)ことがある。この時の記事では、自己の定義について、最終的な結論は述べず、アイディアに留めた(この記事でも、最終的な結論を書くつもりはない)。

ところで、「「甘え」の構造」からヒントを得たのだが、我々は無意識のうちに『自己を、自分の責任が及ぶ範囲、と定義している』とは考えられないだろうか。『「甘える」「頼る」とは自分の責任を他者と共有する行為である』と、無意識的に捉えている、とは考えられないだろうか。(ここでは大雑把な議論をしているので、語句の使い方が「「甘え」の構造」とは多少異なる可能性があります。)

 

また、ところで、自分が悩んでいるとき他者へ頼る(相談する)のには、うまいやり方がある。

自分の悩みを打ち明けるとき、その悩みは自分で解決できない壮大な問題であるからこそ悩みなのである。だから、その悩みを小さな悩みに加工して、他者に相談するのである。ここで、悩みは、相手の方が詳しいテーマになるように加工する必要がある。

例えば、「彼女ができないんだ」という悩みを相手にしたところで、相手は悩んでいる人のことを隅からすみまで理解しているわけではない。だから、あなたが「解決した!」と思えるレベルの答えを提示してくれるなんてことは、あるとしても偶然の産物である。悩みを相談した方は、うまく解決できなくてがっかりすることになる。相談された方は、自分が力になれなかったという感情を抱くだろう。親身になってくれる人であれば、「解決してやる責任のようなもの」が果たせなかったと感じるかもしれない。

このような事態を防ぐために、相手が答えられるようなところまで悩み相談を加工するのである。例えば相手がカフェの店員をやっているという友達だったら、接客について詳しいだろうから、「彼女ができなくて悩んでいて何かヒントが欲しいんだけど、異性の客を接客する時に気をつけていることはある?」とか聞いてみると良いのではなかろうか(もちろん相手が嫌そうな質問は避けつつ、相手によって適切な質問の仕方を選ぶ)。そうすれば、相手は「解決の責任のようなもの」を感じることもなく、比較的自分のしたい話をすることができ、しかも相手の力にもなってあげられるような感覚を味わうことができる。

 

ここで、自己の定義を自分の責任の及ぶ範囲とする、という話に戻ろう。

上の悩み相談の仕方がうまくいくのは、「自己の定義・他者との境界」が曖昧にはならないような方法で適度に「甘えて」いるから、であると考えられそうである。

 

自分が悩んでいる問題を相談すれば全て解決できるような人がいたら、それは自分と区別がつかなくなってしまう。

「甘える」ことを許してあげるような人は世の中に必要だと(土居健郎さんと同様)私も思うが、「甘え」を許すことが度を越して、自分がその人に完全に成り代わってしまうようなことは決してあってはならないと思う。他者が、その人が負うべき責任を押し付けてきそうになったら突っぱねてあげるのは、その人がその人であるために必要なことであり、その人に対する優しさである。仲良い人が悩んでいるとき、その人の悩みを解決してあげたいという気持ちを共有することは大事だが、本当に解決してあげる必要はないのである。

「他人に何かしてあげる」ことや、「他者との関わり方」で悩んでいる人が読者にいれば、「相手にとっての完璧」をやる必要がないということを意識すれば、いささか楽になるのではなかろうか。

社会の中で幸せになりたいなら統計学を信じて広い世界へ飛び込めば良い

タイトルの通りです。

 

みなさん、自分が幸せになりたいと思っていると思いますし、他人を幸せにしたいとも思っていると思います。

 

どちらも全然違う難しさがあります。

自分が幸せになるのはすごく簡単で、すごく難しいです。

幸せのハードルを下げればすごく簡単に幸せになれますが、大抵の人は、既に得ている幸せは過小評価して、どんどん幸せのハードルを上げていきます。時代不変的な、客観的な幸せを求めてしまうので、もはや「自分の幸せ」とは呼べない、到底手に入らない「幸せ」を手に入れようと思ってしまいます。

一方、他人を幸せにするのは、価値観の違いなどに起因する難しさがあります。

相手が何を幸せだと思っているかもわからないですし、社会の現象・相手の行動・こちらの行動について、相手の解釈とこちらの解釈が異なることなど稀ではありません。

 

いずれの幸せも、「社会の多様性」は、人々を不幸にしていってしまっているように見えます。

社会が多様になればなるほど、幸せも多様になりますから、自分が幸せになりたいと思うと、すべての幸せをつかみたいというような気持ちになったり、安易なマスプロの幸せで満足したくないという気持ちが出てきます。

また、社会が多様になれば人々の価値観も多様になりますから、誰かを幸せにしたいと思っても、意思疎通や、行動の解釈が難しくなります。相手に「良いこと」をしてあげようと思っても、相手がその通りに受け取ってくれるとは限りません。相手と「共感」することも難しくなるかもしれません。

社会の多様性は、社会の幸福の敵なのでしょうか。

 

 

そうとは限りません。

多様で、多ければ多いほど、良いものがあります。それは、統計学における「母数」です。

統計学は、一つ一つはランダムでも、全体としてみれば傾向がある、ということを我々に教えてくれます。例えば、世の中にはいろんな身長の人がいますが、100人ぐらいにアンケートを取れば、大体山なりの分布が出来上がります。母数が大きければ大きいほど、より滑らかな分布になります。

この考え方を、他人を幸せにすることについて応用してみるとどうなるでしょうか。他人が幸せになる過程は、「自分がその人を幸せにする」という見方をする代わりに、「社会全体が少しずつその人に『幸福』を様々な面から働きかけることによって、その人が幸せになる」という見方をすることになります。つまり、1つの行動や1つの出来事をとってみれば、必ずしも「ある人」に幸福が訪れるとは限りません。しかし、社会の一人ひとりが「ある人」を「自分なりに」幸せにしようとすれば、1つ1つがうまくいくとは限らなくても、全体を通してみればおそらく幸せになるだろうという見方になるのです。

もし、それでもその人が幸せを感じないなら、それはその人の感じ方の問題です*1

この原理を逆に用いれば、今度は自分が幸せになることもできます。その辺にある「安易な」幸せに対しても、素朴に肯定的な意味を見出し、いろんな幸せを統計的に享受できるようになれば、その幸せの総体を「自分の幸せ」とできるはずです。

(社会の価値観の多様性は、いろんな幸せの中から、幸せを自分で自由に選ぶことを許してくれます。統計学に適った幸せを定めておけば、あとは広い世界へ飛び込んでいけば良いのです。*2

 

(また、統計学的な見方をすることは、自分や他人を、その人の「存在」だけを根拠にして、肯定することができるようになります。母数が増えれば増えるほど、全体の統計は(たとえその人が外れ値であっても)「良いもの」になっていくと信じられるからです。) 

 

 

この見方をするには、社会の多様性を受け入れること、統計学的な考え方を受け入れることがどうしても必要になっていきます。それは、時代の流れなので仕方ないです。逆に言えば、「時代の流れ」ほど、仕方なく受け入れざるをえないものはないはずです。幸せになるために、これだけは受け入れましょう。そうすれば、自分も、他人も、幸せにできるはずです。

*1:ただしこのような論理には総じて例外があります

*2:しかし人生はわからないので、時には考え方を変えて、臨機応変に柔軟な見方を許容することも大事になるかもしれません

センター政経の囚人のジレンマの問題は出題ミスか?

この話題が思いの外面白かったので、記事にしたいと思います。

togetter.com

 

 

話題の概要:今年のセンター政経に、「囚人のジレンマ」に関する出題があった。この問題における「正解」の選択肢は3だが、その選択肢の記述に論理上の誤りがあるのでは?とネットを中心に指摘されている。

 

3の選択肢を見ていきます。この記事では、読者の皆様が囚人のジレンマの問題を少しは知っていることを前提とします。囚人のジレンマを知らない人は、上で挙げたページの他に、次のページの説明が分かりやすいです。

センター試験で出題された囚人のジレンマゲームの記述に納得がいかない人たち外伝 (2ページ目) - Togetterまとめ

 

3の選択肢の記述の「A国とB国がともに「協調」を選択すれば、両国の点数の合計は最大化されるが、」までの部分は問題なさそうですね。(問題に掲載されている表を見ればわかります。)

そのあとに続く、「相手の行動が読めない以上、「協調」を選択できない」という記述が若干怪しいです。

というのも、「相手の行動が読めない」というのは本当でしょうか。

実は、問題文の上の方に「ここで両国は、自国の得る点数の最大化だけを目指すものとする」と書いてあります。表を見ると、A国が「協調」「非協調」どちらを選んでもB国としては「非協調」を選んだほうが得なので、B国は必ず「非協調」を取ることになります。つまり、A国はB国の行動を読めるので、「相手の行動が読めない以上」という選択肢の記述が誤りだと、ネットの各所で指摘されています。

 

少し脇道に逸れます。飛ばして読んでも良いです。

上の指摘に対し、『「相手の行動が読めない」というのが誤りだとしても、選択肢の記述は正しい』という人もいます。彼らがどのように選択肢の記述を解釈したか見ていきます。

記述は「相手の行動が読めない以上、「協調」を選択できない」ですが、これを「『相手の行動が読めない』ならば『「協調」を選択できない』」という意味だと捉えれば、実は「相手の行動が読めない」かどうかは重要ではない(真でなくても良い)ということになります。

論理学の勉強をすればわかるのですが、今Bが真ということがわかっているとき、「AならばB」は、Aが真か偽かに関わらず正しいからです。

選択肢の記述が「「相手の行動が読めない」ならば「協調を選択できない」」程度の意味であると考えて良いのかどうかがポイントになりますが、私はこうは解釈できないと思います。

普通、この(記述の)ような書かれ方をした時、「相手の行動が読めない」ことが正しいことをもメッセージの中に含まれていると考えるのが自然だからです。*1「相手の行動が読めない」という記述が誤りなのかという問題に戻りましょう。

 

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私は、

『「相手の行動が読めない」という部分は、間違いと言えない』

と思います。

理由を順に説明します。

 

「表を見れば、B国が「非協調」を選ぶのは明らか」という説明は、「B国が、個々のケース(A国が協調する場合、非協調の場合)に分けて問題を考えること」を前提としています。

しかし、「囚人のジレンマ」の問題は、「分析的な見方をして考えた時、結局自国の得る点数は大して大きくならない、損をする」ということを教えているのです。

つまり、B国は、「表を元に、場合分けをして、自国の利益を追求する」という「分析的な見方をした問題解決方法」そのものを採用しない可能性が否定しきれず、囚人のジレンマにおける矛盾を(弁証法的に)解決できるようなメタ的視点から、あえて協調を選ぶ可能性があると考えられます。

(「A国の答えは既に決まっているのだ」と考えてしまうと、B国としては、「非協調」を選択したほうが確かに合理的である。しかし、両国が「非協調」を選ぶより、両国が「協調」を選んだほうが良いというのも、理屈としてある*2。だから、「A国の答えが決まっているものとして」考えるということを放棄することで、B国が「協調」を選ぶ可能性が出てくるのである。)

 

よって、私は、出題ミスとは言えないのではないかと思います。

 

 

もっとも、高校生にこれをやらせるのはどうか?という意見もあるかもしれないですが、それはまた問題が違いまして…。3の選択肢が正解と気づくまでなら高校卒業レベルの論理でたどり着けると思いますし、政経の問題であることを考えれば、実際の政治において協調の場面が多いことからも、3を選べるでしょう。論理的にだけ考えるならば、上で述べたように考えるしかないかもしれないですが、上で説明したように問題はないと思われるので、これで良いのではないでしょうか。

 

 

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追記(1/28):全面的に書き直しました。

*1:しかし、詳しいことはわからないので言語学者にでも任せます。

*2:c.f.論理学で、矛盾からは何でも導かれる(不条理則)というものが登場するが、ある意味で少し似ている気がする