自分の生き方を考えるための日記

最大の読者が私だということを書き手の私は肝に銘じよ

自分の定義。他者との境界

最重要な哲学的topicだと私が思うものの一つに、「どのように自分を定義するか」というものがある。

 

自分の定義は時として曖昧で、例えば鷲田清一氏は、自分のからだの一部だって病気の時などに(自分の思うようにコントロールできないために)自分でないものとして浮き上がってくる、という趣旨のことを書いている。「身体と精神の二元論」などに代表されるテーマに密接に関わっており、多くの哲学者が考えてきたことだと思う。あれこれ自分で考えるより、哲学史を学ぶべきだ、という意見もあるだろうが、あまり知らないことがかえって既存の考え方に影響を過度に受けないという利点にもなりうると思うので、この問題について自分で考えているということは頻繁にしている。

(興味がある方は「心の哲学 - Wikipedia」「自己 - Wikipedia」などもご参照ください)

 

自分の定義として、一番最初に思いつく「身体的定義(自分とは物理的な自分の体そのものであるという定義)」は、自分かそうでないかを明確に判断できるという利点もあるが、先に述べた鷲田清一氏の例は身体的定義が絶対的でないことを示しており、それ以外の日常的場面でも、自分の定義が身体的なものでは済まされないと感じることはよくある。実は、身体的な定義を自分の定義とすることは何も自明なことではない。

ドイツの哲学者(誰か忘れた)が「人は死んでしまうけど、実は子供や孫に自分の意思は引き継がれ、つまり精神的な部分で、子供や孫の中で生き続ける」というようなことを書いている。自分の定義を身体的にではなく、精神的なものとして定義している典型的なパターンであると思われる。

 

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人は自分の性格に何かしらの劣等感を感じている時に、「生まれ変わりたい」などと言ったりする。また、他者から「君のこういう性格は直したほうがいいよ」と言われた時に、その「直したほうがいい」と言われた部分に「自分らしさ」を感じていたとしたら、(発言者が自分の性格を良くしてくれようと言ってくれたと頭では理解した場合でも)自分が否定されたと感じ傷つき、「本当は「自分」は切り捨てられようとしているそこにあるんだけどな」という感じになることはないだろうか。この場合、「性格を直す」ことや「生まれ変わる」ことは、切り捨てられる部分に自分らしさを感じているとしたら、文字通り「死」を意味する。「精神的な定義による自分」の死である。

解釈は人によって異なる。だから、自分が「自分」だと思っているものを、他者が平気で「これは私である」と言って、勝手に操作しようとすることがある。逆に、自分が「自分」だと思っていないものに対して、他者は「これが君だ」と言ってくることさえある*1。このような人間関係の根本的な部分に、「自分の定義の曖昧性」(と「解釈の観測者依存性」)の問題があると私は考えている。

 

精神的な自分の定義を採用する場合の問題は、このように、何が自分で何が自分でないのか判断するのか難しくなる点である。うまく自分を定義する方法はないかと日々考えているのだが、考えたことを少し紹介する。あるものを観測したとき、それに対する解釈は(一般に)異なるが、解釈がかなりの場合一致するものが存在する。それは、ある行為について、その行為を行ったのが誰であるか、という解釈である。自分がやってなくて、自分が見ている人がやっている行為を、自分がやった行為だと捉え間違えてしまうことは普通はない。ただし、これには例外が存在する。例えば自分がマウスをクリックしたとき、偶然テレビの電源が切れれば、(実際はタイマーなどで電源が切れたとしても)自分がマウスをクリックしたことでテレビが切れたのではないかと錯覚する、などということはよくある。もしこのような錯覚がなかったとしたら、自分の行動を自分のものとして解釈するということを自分の定義とできたかもしれない(よく分からない)。ただ、明らかな傍観者*2と、行為者の間には、傍観者が考える以上に行為についての大きな解釈の差が生まれると思う。それは行為者の特権であり、行為について反省することすらその特権の範疇であるようにも感じられる。そこで特権を認めなければ、自分は自分としてこの世界の中で何らかの行動をしながら生きていくことは難しいだろう。行為をするというリスクを取らなくても、傍観者になるだけで「自分」が行為者と同様のものとして定義できるなら、人は行為をしなくなるだろう。おそらく、行為と自己、解釈と記憶の上に挙げたようなことを整理すれば、自分の定義の妥当な答えが得られるのではないだろうか。

*1:注意して欲しいのは、このようなことが必ずしも、ここでいう他者が悪い、と言いたいのではないということである。このようなことが必然的に、仕方なく起きているのかもしれないし、発生原理や各人の思惑まで考慮しなければ、誰が悪いとかいうことは考えることすら難しいと思うからである。

*2:明らかに傍観者と行為者が区別できる場合の傍観者