自分の生き方を考えるための日記

最大の読者が私だということを書き手の私は肝に銘じよ

自説だらけのブログへようこそ。 ブログの案内はこちら

社会の中で幸せになりたいなら統計学を信じて広い世界へ飛び込めば良い

タイトルの通りです。

 

みなさん、自分が幸せになりたいと思っていると思いますし、他人を幸せにしたいとも思っていると思います。

 

どちらも全然違う難しさがあります。

自分が幸せになるのはすごく簡単で、すごく難しいです。

幸せのハードルを下げればすごく簡単に幸せになれますが、大抵の人は、既に得ている幸せは過小評価して、どんどん幸せのハードルを上げていきます。時代不変的な、客観的な幸せを求めてしまうので、もはや「自分の幸せ」とは呼べない、到底手に入らない「幸せ」を手に入れようと思ってしまいます。

一方、他人を幸せにするのは、価値観の違いなどに起因する難しさがあります。

相手が何を幸せだと思っているかもわからないですし、社会の現象・相手の行動・こちらの行動について、相手の解釈とこちらの解釈が異なることなど稀ではありません。

 

いずれの幸せも、「社会の多様性」は、人々を不幸にしていってしまっているように見えます。

社会が多様になればなるほど、幸せも多様になりますから、自分が幸せになりたいと思うと、すべての幸せをつかみたいというような気持ちになったり、安易なマスプロの幸せで満足したくないという気持ちが出てきます。

また、社会が多様になれば人々の価値観も多様になりますから、誰かを幸せにしたいと思っても、意思疎通や、行動の解釈が難しくなります。相手に「良いこと」をしてあげようと思っても、相手がその通りに受け取ってくれるとは限りません。相手と「共感」することも難しくなるかもしれません。

社会の多様性は、社会の幸福の敵なのでしょうか。

 

 

そうとは限りません。

多様で、多ければ多いほど、良いものがあります。それは、統計学における「母数」です。

統計学は、一つ一つはランダムでも、全体としてみれば傾向がある、ということを我々に教えてくれます。例えば、世の中にはいろんな身長の人がいますが、100人ぐらいにアンケートを取れば、大体山なりの分布が出来上がります。母数が大きければ大きいほど、より滑らかな分布になります。

この考え方を、他人を幸せにすることについて応用してみるとどうなるでしょうか。他人が幸せになる過程は、「自分がその人を幸せにする」という見方をする代わりに、「社会全体が少しずつその人に『幸福』を様々な面から働きかけることによって、その人が幸せになる」という見方をすることになります。つまり、1つの行動や1つの出来事をとってみれば、必ずしも「ある人」に幸福が訪れるとは限りません。しかし、社会の一人ひとりが「ある人」を「自分なりに」幸せにしようとすれば、1つ1つがうまくいくとは限らなくても、全体を通してみればおそらく幸せになるだろうという見方になるのです。

もし、それでもその人が幸せを感じないなら、それはその人の感じ方の問題です*1

この原理を逆に用いれば、今度は自分が幸せになることもできます。その辺にある「安易な」幸せに対しても、素朴に肯定的な意味を見出し、いろんな幸せを統計的に享受できるようになれば、その幸せの総体を「自分の幸せ」とできるはずです。

(社会の価値観の多様性は、いろんな幸せの中から、幸せを自分で自由に選ぶことを許してくれます。統計学に適った幸せを定めておけば、あとは広い世界へ飛び込んでいけば良いのです。*2

 

(また、統計学的な見方をすることは、自分や他人を、その人の「存在」だけを根拠にして、肯定することができるようになります。母数が増えれば増えるほど、全体の統計は(たとえその人が外れ値であっても)「良いもの」になっていくと信じられるからです。) 

 

 

この見方をするには、社会の多様性を受け入れること、統計学的な考え方を受け入れることがどうしても必要になっていきます。それは、時代の流れなので仕方ないです。逆に言えば、「時代の流れ」ほど、仕方なく受け入れざるをえないものはないはずです。幸せになるために、これだけは受け入れましょう。そうすれば、自分も、他人も、幸せにできるはずです。

*1:ただしこのような論理には総じて例外があります

*2:しかし人生はわからないので、時には考え方を変えて、臨機応変に柔軟な見方を許容することも大事になるかもしれません