自分の生き方を考えるための日記

最大の読者が私だということを書き手の私は肝に銘じよ

心の持ちようの連立方程式を解く

現代を生きる上で、理由のよく分からない漠然とした不安・悩みを抱えることは多くの人にあるだろう。心の持ちようや、思考回路、自分の信条について、自分で整理しなくてはならない場面もあるだろう。

やはり、多くの人が悩むからには、「あちらを立てればこちらが立たず」というような状況での選択が必要となる場面が多いからであろう。

自分の心の持ちよう・思考回路・信条に対しては、抽象的であるために、より複雑で、簡単にメリット・デメリットを挙げて考えれば良い問題ではない(それだけでよいわけではない)にしても、それぞれの思考回路の良い点・悪い点を考慮しつつ、どのような立場をとるべきか考えることはしばしばなされうるだろう。

思考回路・信条は、その複雑さ・現実に直結することとその重要性・他の考えとの関係性・整合性などから、簡単に数値化(スコア化)して、メリットの得点の高いものを採用すればよいというものではない。全体を見て、総合的に判断する必要があるからこそ、「問題を部分的に見て良さそうな選択を続けて行けば、いつかはいい答えにたどり着く」というような単純な問題ではないのだ。

 

我々が抱えている問題(選択の問題)はしばしば、「連立方程式を解くような問題」と考えることができるだろう。先に書いたように、それぞれの選択肢を数値化できるわけではないから、連立方程式に関する数学的な定理が厳密に成り立つわけではない。それでも、問題を解決する上で、アナロジーとして、使うことができる。どのように問題を解決すれば良いか、状況を整理するための参考として、連立方程式を解くという「イメージ」を用いることができることもある。

 

連立方程式を解く問題と考えれば、例えばx, y, zの3つの文字が登場する連立(一次)方程式を考えよう。解(x, y, z)がただ一つに決まるには、方程式は3本立てる必要がある。2本だったら条件式は足りていない。一方、方程式を4本以上立ててしまうと、解が存在しないことがある。

現実の問題で解を求めるときも、このような場面はあるだろう。制約条件が多過ぎれば、解が定まらないことがある。そういうときは、少し条件を緩めてやる必要がある。

逆に、解がたくさん存在してしまう場合には、ちょっと条件を追加して、より良い解へと解の候補を絞ることが考えられる。

 

また、たくさんの制約を同時にクリアしないといけない場合には、方程式を実質的に同じものにしてしまう方法が考えられる。

例えば、x+y+2z=0と、両辺を2倍した2x+2y+4z=0は、実質的には等価な条件式である。このような2つの条件式は、実際には1つの条件式としての振る舞いしかしないので、解の候補を減らすことなく、望ましい条件式を満たすことができる。例えば、資本主義では、社会のための行動がお金を稼ぐことにつながり自分のための行動にもなるが、自分のための行動と社会のための行動を区別しないことで、「自分のために行動したい」という人々の欲求と、「人々は社会のために行動してほしい」という社会の欲求が等価な(人々の行動選択の)条件となっている、と見ることができる(これは説明のための大雑把な見方であるが)。

この方法を使えば、解の選択肢を狭めることなく、様々な(満たしてほしい)制約を満たす解を見つけることができると考えられる。

 

では、条件式を等価な条件ばっかりして(「縮約」して)いけばいいかというと、そんな簡単な問題ではない。

考えているときは抽象的に問題を考えているからこそ、現実的には、とりたかった選択肢が何らかの理由でとれないということがありうる。

このとき、望ましい解を取ることを前提として、様々な条件が「その解(最も良いとされる解)では満たす」ことだけを目的として作られれば、その解を選べなくなったとき、たくさんの条件を満たせないという状況に陥ってしまいうるのである。

自分の調子が良い時だけでなく調子が悪い時にもうまく行くような考え方をすること、世の中の成功者や社会のレールに乗っている人だけでなく「社会の成功の既定路線」からはずれた生き方も十分可能な社会の仕組みにすること、社会の多様性を積極的に求めるような制度設計であること(どんな立場の人々も大きく損をする社会的な構造でないこと)など、どれも難しい問題であるが、世の中の問題は「連立方程式を解く問題」で条件を縮約させていけばいい、なんて考えていれば、かえってこういう問題を解く方向からは遠ざかってしまうのである。

 

また、悩んでいる人に対して「もうちょっと考えたほうがいい」とか「あんまり考えすぎないほうがいい」「Aをしたほうがいい」「Aをしないほうがいい」など、一見真逆に見えるようなアドバイスの仕方がありうるような問題は世の中に多い。

これは、連立方程式の条件を少しいじる(条件が多すぎたら取っ払うことなど)上で、どのような条件を変えれば良いかは、かなり人によって異なるということも関係すると思われる。

人によって、特に信条などにおいては、重要視する考え方(制約条件)もあるだろうし、複雑な問題であるからこそ、どのような条件を取り払えば良いかもその人の様々な条件に依存して変わってしまう。

また、ある条件を外しても、状況によっては、大して解の範囲が広がらないこともあるだろう。また、望ましい条件式を設定する上で、今課している条件式のうち制約性の強いものを外した上で、それを外してしまったがために起きうるまずい状況を回避するべく別の(制約性のあまり強くない)条件式を課さなくてはならないという場面も生じうる。

 

ここまで、連立方程式を解く問題(というより、連立方程式の条件の設定の問題)として様々な問題を捉えることを論じてきたが、結局こうすれば良いよ、という方法論的なまとめはあえて提示するべきではないと思われる。

というのも、先に述べたように、楽観的に(安易に)良さそうな方法論に従ってみたところで、それがかえって難しい問題を招いてしまうこともあるからである。やはり、一人一人が慎重に、自分の頭で考え、「自分の考え」「行動」「自分の考えを整理するための方法論」それぞれに対して責任を持ち、選択をしていかなくてはならないということであろう。

社会の分断の問題や情報化の問題、コミュニケーションの問題(勘違いの問題)などもある以上、自分の行動選択について、基本的に集合知に任せて、良さそうな選択をすれば良いという生き方は非常に危険であろう(危険性に気づきにくいという問題もある)。

ということを再確認したところで今日の記事を終える。

情報の壁が取り払われつつあるネット上で、議論の場の住み分けが難しくなっている問題

インターネットは今までの情報の壁を取り払い、多くの人々に「つながる場」を提供し、様々な情報にアクセスできる権利を与えた。このように多くの場合において情報化は良いものとして捉えられる一方、情報が氾濫してしまい、人々は情報を取捨選択することを迫られ、正しい判断が難しくなっている...ということには、多くの人々が気づいていることだろう。

以上の話は、情報を外部から一方的に得ることを想定して書かれた情報化の功罪であるが、では、他の人と議論をすることについては、情報化はどのように影響をもたらすだろうか。

従来、人々は議論をする際、暗黙のうちに「同レベルの人たち」と議論をしていることを仮定していたのではないだろうか。話す相手と明らかに立場が異なる場合(同レベルの人以外の場合)は、教える側と教えられる側というような関係に(自然と)なっており、議論という話の形式は自動的に避けられていた。

また、従来は、議論をしている際に明らかに議論の前提部分に認識のズレがある場合には、直接会っているので相手の様子から認識のズレをなんとなく認識することもできた。というのも、従来、相手と直接会って議論していた時には、相手の年齢や職業、性別などの情報もこちらに伝わっているし、声のトーンや表情、身振り手振りなど、一見議論には直接関係のないような事柄が、「そもそも議論の前提が共有できてないのではないか」をうかがい知るための情報となっていた。

このように見ていくと、情報化された現代でネット上に設けられた議論スペースにおいては、従来の議論をするための環境の条件を、ある意味では保てていないと言えよう。ネット上では、様々な年齢で様々な立場にある人々を一緒くたにして議論の場に放り込んでいるところが多い(これは「開かれている」という意味では良い点でもあるのだが)*1。また、ネット上では「意見を文字化して、議論に必要最小限の情報だけを伝えがち」になってしまう*2

 

それでも、「答えがある問題」ならば、まだ良いだろう。問題は、「答えがない問題」である。

答えがない問題については、ゴール(議論の到達目標)があるとすれば、その人の年齢やレベルに応じて存在すると筆者は思っている。

例えば、幼い子供の場合、「嘘をつくのは良いか悪いか」というテーマでは、「嘘をつくのは悪い」という結論に至るべきであろう。ただし、ある程度年齢を重ねてくれば、「嘘をつくのは必ずしも悪いことではないケースもあるのでは?」という可能性を考えられるようになるべきであろう。ここでは、「嘘をつくのは良いことも悪いこともある」ぐらいの結論に至って終わりでも良いだろう。ただ、さらに年を重ねてくれば、「そうはいっても、嘘という言葉でひとまとめにしていたが、やはりつくべきでない嘘もあるのではないか、とか、場面によっては嘘が許されない場面もあるのではないか」など、より細かいところまで踏み込んで考えることが必要になってくるだろう。このように、段階を踏んで、考えをより深化させていくことこそ「成長」だと考える。幼い子供がいきなり「嘘は良いことも悪いこともある」という結論を他の人に言われるがまま信じたところで、それは成長ではないだろう。夏目漱石『現代日本の開化』において、日本の文明開化を評した言葉を借りれば、「外発的」で「皮相上滑り」な成長になってしまう。

以上にも述べたように、答えのない問題に対しては、本人の成長の段階に応じて到達すべき答えも変わってくるはずである。従来は、自分と同レベルの人としか議論はしなかったし、自分よりレベルの高い人たちから考えを教えてもらう機会はある程度限られていただろう。だから、情報化する前の世界において、幼いうちは、そんなに成長レベルの高くない答えでも自分が出した答えに満足できていたことと思う。この満足は、「自分で考える」ということの原動力となっていたのであろう。

それが今や、ネットを見れば、自分よりも頭の良さそうな人たちが答えを出している。自分が出した結論と比べてしまうと、自分が出した結論で満足できなくなることも多いだろう。

自分と同レベルの人たちと議論できる場が確保できれば、そのような場は議論の場となりうる。ただし、インターネットは様々な情報の障壁を取り払ってしまったがために、同レベルの人の意見だけにアクセスできる環境を設けることは難しく、自分よりも頭が良さそうで正しそうなことを言っていると感じる人の意見を借用する場になってしまいかねない。そのような人の意見の問題点を自分で十分には吟味できず、受け入れてしまいかねなくなる。結局、自分の考えを深めるための「議論の場」とすることはできない。

また、「各自が到達するべき答えが異なっている」とは思わず、絶対的な答えがあると信じる人もいるだろう。その人にとっては、ネットは「議論を戦わせて、最終的に正しい答えを得る場」なのだろう(もちろんこのような議論も世の中には存在するだろう)。しかし、ビジネスにおいて何か決断を下さないといけないような場面でもなく、答えを出す必要に迫られていない場面においては、「より良い答えを出す」という議論の目的は建前の目的であって、その答えを出す過程で各自が考えを深化させることの方が重要であったりするのだ。

いや、世の中にどのような議論の形態があるのがきちんと考えたわけではないので、上に書いたことは少し矮小な話になっているかもしれないが、それでも上の議論から言えることは、ネット上の議論においては、議論の目的の一つである「各自がそれぞれの到達目標に向かって、自分の考えを深化させる」ということが非常に達成しづらい、ということである。

 

長々と書いてきてめんどくさくなってきたので駆け足でいきたいが、上で「同レベルの人たちと」というのは、「同じような考えの人たちと」という意味とは限らない。本来、試行錯誤して自分の意見を積み上げてきた人同士であれば、異なる意見を持ってる人であっても議論ができるはずであり、「段階として同レベル」な人たちと異なる意見を交わせる議論が望ましかろう。

 

 

最近、ネット上で不毛な議論を見かけることもあるだろうが、私はそれは部分的には情報化がもたらすものであって、仕方がないところもあると思っている。やはり、システムやコミュニケーション手段に依存した問題点に関しては、簡単に議論の相手を嫌うべきではないだろうし*3、不毛な議論となってしまっても仕方のないこともあるのだろう。

その上で、我々は、今のコミュニケーション媒体においては議論の場の住み分けがあまりできていないことを念頭におきつつ、様々なレベルの人たちとほどほどにやっていかないといけないということである。

基本的には、自分と違う意見の人がいても、集団で批判することでその人が成長するというようなことはない(集団に叩かれれば、集団に意見を合わせることもあるだろうが、それは集団の意見に合うように妥当な理由を考えた結果、集団の意見にあっただけであり、たとえ集団の意見が正しいものであったとしても、あれこれ悩んだ末に集団と同じ意見に到達すべきであって、叩いた結果考えが一致してもあまり意味はない)と考えるべきであろう。

もちろん、政治的な話題などでは、議論を戦わせる議論もありうるだろうが、そのような議論と普段の議論は性格が異なる。

情報化によって、世の中には本当に多くのものが出てきた。議論だけでも、世の中には実に様々な議論があることが情報化によってわかった。我々は似ているものを混同しがちである。誰であっても勘違いはするし、判断を誤りうる。情報化の困難さは、そこにもある。AとCしか存在しなければ、AとCが区別できていたが、AとCの中間であるBが登場することにより、AとB、BとCの区別が難しくなった結果、AとCを混同してしまうことだってありうる。我々は、世の中のものを似ているものは「似ている」と思いつつも、安易に同一視することの危険性に配慮しつつ、慎重に判断しなくてはならない*4。議論についても、様々な議論の形態が存在することに注意せねばなるまい。

 

結局、議論の際に注意すべきことを色々述べたが、かなり複雑な問題であると言えるだろう。議論している相手が憎く思えても、部分的には情報化(とコミュニケーション手段)がもたらした問題であるのだ、と思えば、幾分か冷静になれるのではないだろうか。情報化は本当に厄介な問題を我々にもたらしたが、情報化を後戻りさせることはできない。逆に言えば、我々はこの問題を、これから先の時代のすべての人々と共有し、ともに乗り越えていくということである。いつか我々は情報化の問題を解決できるのだろうか*5

*1:では、ネット上で議論の場をどう構築すべきだろうか。ある程度同じような人だけが入れるような議論の場を作るべきとも言えるが、そのような場は閉鎖的になるという問題もある。ここでは、議論の場をどう構築すべきかという問題にはこれ以上立ち入らない

*2:どのような意見交換ツールを構築するべきか、という問題に話を進めたいところだが、今は立ち入らない

*3:いや嫌いになることも時には必要かもしれないし、嫌うべきではないとかってことは余裕があるときに考えておくべきことなのだろう。現に嫌いになったら早くその問題を終わらせてしまった方が良いかもしれない

*4:ここで述べた、情報の氾濫により区別が付けづらくなる問題は情報化がもたらす一般的な問題であって、このことだけに限らない

*5:攻殻機動隊S.A.Cというアニメの冒頭では、舞台である2030年を「あらゆるネットが眼根を巡らせ、光や電子となった意思をある方向に向かわせたとしても、“孤人”(STAND ALONE)が複合体(COMPLEX)としての“個”になるほどには情報化されていない時代」と説明している。コミュニケーションの障壁は情報化が不十分だから起きる問題であり、さらに情報化が進めば解決できる問題だ、ということだろうか?そんな楽観的で解決できる問題だろうか?

人工知能が造る未来

過去に録画したテレビ番組を漁っていて出てきた、NHKのNEXT WORLDという番組を見返した。

 

www6.nhk.or.jp

 

未来のほとんどを人工知能が予測しまう未来である。

 

以前から、僕は、IT化は人類にとって総合的に見ればマイナスな影響をもたらしたのではないかという気がしているところがある。インターネットは多くの障壁を取り払ったが、逆に言えば、我々が寄りかかるべき壁までもなくしてしまったと思っている。壁は全てが悪いものではなく、壁があれば我々は寄りかかって休むことができるし、過度な競争を避けるストッパーにもなる。また、IT化による情報過多に関して言えば、既に問題意識を多くの人々が持っていると思う。

 

NEXT WORLDでは、将来ヒットする歌手を人工知能によって見つけ出したり、犯罪が起きそうな場所を人工知能で予測しパトロールに反映させるといった、近未来的で、アメリカの一部地域では既に試みられている人工知能の活用が紹介されていた。

 

個人的には、やっぱり、メリットよりもデメリットが大きいように思えた。

 

将来ヒットする歌手を人工知能によって見つける例では、将来的に(ある意味での)格差がどんどん拡大していくのではないかという懸念を覚える。

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