自分の生き方を考えるための日記

最大の読者が私だということを書き手の私は肝に銘じよ

情報の壁が取り払われつつあるネット上で、議論の場の住み分けが難しくなっている問題

インターネットは今までの情報の壁を取り払い、多くの人々に「つながる場」を提供し、様々な情報にアクセスできる権利を与えた。このように多くの場合において情報化は良いものとして捉えられる一方、情報が氾濫してしまい、人々は情報を取捨選択することを迫られ、正しい判断が難しくなっている...ということには、多くの人々が気づいていることだろう。

以上の話は、情報を外部から一方的に得ることを想定して書かれた情報化の功罪であるが、では、他の人と議論をすることについては、情報化はどのように影響をもたらすだろうか。

従来、人々は議論をする際、暗黙のうちに「同レベルの人たち」と議論をしていることを仮定していたのではないだろうか。話す相手と明らかに立場が異なる場合(同レベルの人以外の場合)は、教える側と教えられる側というような関係に(自然と)なっており、議論という話の形式は自動的に避けられていた。

また、従来は、議論をしている際に明らかに議論の前提部分に認識のズレがある場合には、直接会っているので相手の様子から認識のズレをなんとなく認識することもできた。というのも、従来、相手と直接会って議論していた時には、相手の年齢や職業、性別などの情報もこちらに伝わっているし、声のトーンや表情、身振り手振りなど、一見議論には直接関係のないような事柄が、「そもそも議論の前提が共有できてないのではないか」をうかがい知るための情報となっていた。

このように見ていくと、情報化された現代でネット上に設けられた議論スペースにおいては、従来の議論をするための環境の条件を、ある意味では保てていないと言えよう。ネット上では、様々な年齢で様々な立場にある人々を一緒くたにして議論の場に放り込んでいるところが多い(これは「開かれている」という意味では良い点でもあるのだが)*1。また、ネット上では「意見を文字化して、議論に必要最小限の情報だけを伝えがち」になってしまう*2

 

それでも、「答えがある問題」ならば、まだ良いだろう。問題は、「答えがない問題」である。

答えがない問題については、ゴール(議論の到達目標)があるとすれば、その人の年齢やレベルに応じて存在すると筆者は思っている。

例えば、幼い子供の場合、「嘘をつくのは良いか悪いか」というテーマでは、「嘘をつくのは悪い」という結論に至るべきであろう。ただし、ある程度年齢を重ねてくれば、「嘘をつくのは必ずしも悪いことではないケースもあるのでは?」という可能性を考えられるようになるべきであろう。ここでは、「嘘をつくのは良いことも悪いこともある」ぐらいの結論に至って終わりでも良いだろう。ただ、さらに年を重ねてくれば、「そうはいっても、嘘という言葉でひとまとめにしていたが、やはりつくべきでない嘘もあるのではないか、とか、場面によっては嘘が許されない場面もあるのではないか」など、より細かいところまで踏み込んで考えることが必要になってくるだろう。このように、段階を踏んで、考えをより深化させていくことこそ「成長」だと考える。幼い子供がいきなり「嘘は良いことも悪いこともある」という結論を他の人に言われるがまま信じたところで、それは成長ではないだろう。夏目漱石『現代日本の開化』において、日本の文明開化を評した言葉を借りれば、「外発的」で「皮相上滑り」な成長になってしまう。

以上にも述べたように、答えのない問題に対しては、本人の成長の段階に応じて到達すべき答えも変わってくるはずである。従来は、自分と同レベルの人としか議論はしなかったし、自分よりレベルの高い人たちから考えを教えてもらう機会はある程度限られていただろう。だから、情報化する前の世界において、幼いうちは、そんなに成長レベルの高くない答えでも自分が出した答えに満足できていたことと思う。この満足は、「自分で考える」ということの原動力となっていたのであろう。

それが今や、ネットを見れば、自分よりも頭の良さそうな人たちが答えを出している。自分が出した結論と比べてしまうと、自分が出した結論で満足できなくなることも多いだろう。

自分と同レベルの人たちと議論できる場が確保できれば、そのような場は議論の場となりうる。ただし、インターネットは様々な情報の障壁を取り払ってしまったがために、同レベルの人の意見だけにアクセスできる環境を設けることは難しく、自分よりも頭が良さそうで正しそうなことを言っていると感じる人の意見を借用する場になってしまいかねない。そのような人の意見の問題点を自分で十分には吟味できず、受け入れてしまいかねなくなる。結局、自分の考えを深めるための「議論の場」とすることはできない。

また、「各自が到達するべき答えが異なっている」とは思わず、絶対的な答えがあると信じる人もいるだろう。その人にとっては、ネットは「議論を戦わせて、最終的に正しい答えを得る場」なのだろう(もちろんこのような議論も世の中には存在するだろう)。しかし、ビジネスにおいて何か決断を下さないといけないような場面でもなく、答えを出す必要に迫られていない場面においては、「より良い答えを出す」という議論の目的は建前の目的であって、その答えを出す過程で各自が考えを深化させることの方が重要であったりするのだ。

いや、世の中にどのような議論の形態があるのがきちんと考えたわけではないので、上に書いたことは少し矮小な話になっているかもしれないが、それでも上の議論から言えることは、ネット上の議論においては、議論の目的の一つである「各自がそれぞれの到達目標に向かって、自分の考えを深化させる」ということが非常に達成しづらい、ということである。

 

長々と書いてきてめんどくさくなってきたので駆け足でいきたいが、上で「同レベルの人たちと」というのは、「同じような考えの人たちと」という意味とは限らない。本来、試行錯誤して自分の意見を積み上げてきた人同士であれば、異なる意見を持ってる人であっても議論ができるはずであり、「段階として同レベル」な人たちと異なる意見を交わせる議論が望ましかろう。

 

 

最近、ネット上で不毛な議論を見かけることもあるだろうが、私はそれは部分的には情報化がもたらすものであって、仕方がないところもあると思っている。やはり、システムやコミュニケーション手段に依存した問題点に関しては、簡単に議論の相手を嫌うべきではないだろうし*3、不毛な議論となってしまっても仕方のないこともあるのだろう。

その上で、我々は、今のコミュニケーション媒体においては議論の場の住み分けがあまりできていないことを念頭におきつつ、様々なレベルの人たちとほどほどにやっていかないといけないということである。

基本的には、自分と違う意見の人がいても、集団で批判することでその人が成長するというようなことはない(集団に叩かれれば、集団に意見を合わせることもあるだろうが、それは集団の意見に合うように妥当な理由を考えた結果、集団の意見にあっただけであり、たとえ集団の意見が正しいものであったとしても、あれこれ悩んだ末に集団と同じ意見に到達すべきであって、叩いた結果考えが一致してもあまり意味はない)と考えるべきであろう。

もちろん、政治的な話題などでは、議論を戦わせる議論もありうるだろうが、そのような議論と普段の議論は性格が異なる。

情報化によって、世の中には本当に多くのものが出てきた。議論だけでも、世の中には実に様々な議論があることが情報化によってわかった。我々は似ているものを混同しがちである。誰であっても勘違いはするし、判断を誤りうる。情報化の困難さは、そこにもある。AとCしか存在しなければ、AとCが区別できていたが、AとCの中間であるBが登場することにより、AとB、BとCの区別が難しくなった結果、AとCを混同してしまうことだってありうる。我々は、世の中のものを似ているものは「似ている」と思いつつも、安易に同一視することの危険性に配慮しつつ、慎重に判断しなくてはならない*4。議論についても、様々な議論の形態が存在することに注意せねばなるまい。

 

結局、議論の際に注意すべきことを色々述べたが、かなり複雑な問題であると言えるだろう。議論している相手が憎く思えても、部分的には情報化(とコミュニケーション手段)がもたらした問題であるのだ、と思えば、幾分か冷静になれるのではないだろうか。情報化は本当に厄介な問題を我々にもたらしたが、情報化を後戻りさせることはできない。逆に言えば、我々はこの問題を、これから先の時代のすべての人々と共有し、ともに乗り越えていくということである。いつか我々は情報化の問題を解決できるのだろうか*5

*1:では、ネット上で議論の場をどう構築すべきだろうか。ある程度同じような人だけが入れるような議論の場を作るべきとも言えるが、そのような場は閉鎖的になるという問題もある。ここでは、議論の場をどう構築すべきかという問題にはこれ以上立ち入らない

*2:どのような意見交換ツールを構築するべきか、という問題に話を進めたいところだが、今は立ち入らない

*3:いや嫌いになることも時には必要かもしれないし、嫌うべきではないとかってことは余裕があるときに考えておくべきことなのだろう。現に嫌いになったら早くその問題を終わらせてしまった方が良いかもしれない

*4:ここで述べた、情報の氾濫により区別が付けづらくなる問題は情報化がもたらす一般的な問題であって、このことだけに限らない

*5:攻殻機動隊S.A.Cというアニメの冒頭では、舞台である2030年を「あらゆるネットが眼根を巡らせ、光や電子となった意思をある方向に向かわせたとしても、“孤人”(STAND ALONE)が複合体(COMPLEX)としての“個”になるほどには情報化されていない時代」と説明している。コミュニケーションの障壁は情報化が不十分だから起きる問題であり、さらに情報化が進めば解決できる問題だ、ということだろうか?そんな楽観的で解決できる問題だろうか?