自分の生き方を考えるための日記

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幸せの重さは:終物語より

「終物語 上」(もしくはアニメ版終物語の第六話まで)のネタバレを含みうるのでご注意を(読んでない/見てない人は見て欲しい)。

 

終物語(西尾維新)より

登場人物:オイクラは悲惨な家庭環境で育つ。

いろいろあって、小さい頃オイクラは、主人公であるアララギ君の家に保護されることになるが、そこで主人公の家庭の幸せで何気ない日常生活を目の当たりにする。自分にはまぶしすぎる。自分はその幸せを享受するに値しない。そう感じていたと打ち明けるオイクラに対して、アララギくんはこう放つ。

お前が潰れるほど重い幸せなんてこの世にねえ。
幸せは、まぶしくもなければ重くもない。
幸せを過大評価するな。
あらゆる幸せは、お前にとってちょうどいいんだ

(一次資料:終物語 上、二次資料:http://meigen.hatenadiary.jp/entry/2015/12/20/「お前が潰れるほど重い幸せなんてこの世にねえより)

 

幸せによって人が苦しんでたまるか、そんなアララギくんの気持ちが表れているように思う。

この言葉は、オイクラ(幸せを目の当たりにした側)のためだけを考えた言葉ではなく、幸せを享受する(「見せつける」)側のためでもあるような言葉のように思う。その言葉を伝えたのはオイクラに対してだけだが、それはオイクラの将来のことを考えてのことであろう。

オイクラが将来、幸せを「見せつける」側になる*1ことを願っての言葉である。

 

 

ところで、ここからは特に勝手な私の解釈だが、

幸せ、というものはそもそも、ある状況に対して、その場に居合わせるそれぞれの人が、勝手に意味づけるものでしかないのではないか

ある人にとって幸せだと思う状況を、その幸せを感じている人の迷惑になるなどと考えて、自分の行動を制限するな。幸せは、各自が勝手に意味づけるものと考えれば、各自が好きなように行動していたところで、幸せを妨害することなど(通常の日常生活*2の中では)ないと考えてよい(しかし幸せに客観性・普遍性を求めた瞬間に、幸せが他人に妨害される可能性が現れてくる)。

そもそも、幸せが、客観的なものであってたまるか

というような気持ちも含まれているのかもしれない。

*1:目の当たりにする方から見せつける側に移るというより、そもそもそのような幸せの捉え方をせず、自分の幸せを享受できるようになることを願っているのだろう

*2:戦争やテロを始めとする犯罪行為は除くとして