他者を正しく評価することはそれだけで価値
他者・他者の行為を正しく評価することはそのだけで価値である。
正しく評価するとは、行為者の真意を理解することが主軸で、しかしそれを状況の文脈に照らして適切に評価できることをここでは指す。
正しく評価すること自体には、誰かから評価してもらえるわけではない。しかし、行為は観測されて初めて意味を持つという観点からすれば、正しく評価することは、評価対象である行為の重要な一部分を成していると言える。次の積極的な行為が生まれるのも、正しい評価がなされるという状況があるからである。正しく評価を下す彼らは、評価の対象から漏れているように感じる。もしかしたら、そうだからこそ、彼らは評価する側をやれているのかもしれないが。
c.f.
これとも通じる。
私は、世の中の価値観で掬い取れないけれど、社会のために核心的で素晴らしい役割を果たしている人の行為を、できることなら掬いたいと思っている。
しかし、彼らは掬い取られないからこそそのような立場を選択して役割を果たしているのかもしれないのであり、安易に掬いとることはむしろ迷惑・失礼にもなりかねない。
私は、人には実は、そういう「掬い取られない価値」を、なんとなく感じ取る能力があるのではないかと信じている。社会の中で核心的な役割を果たしているのであれば、人は経験的にそれを「何となく」知っているはずだから、それも当然なのである。もちろん全員でないにしても、それは「正しい評価」それ自体が一部の人によって「正しく評価」されたのだから、それでいいはずなのである。