量子論と、bumpの「カルマ」
bump of chickenのカルマを聴いていて、歌詞に量子論の言説っぽいフレーズが多いことに気づく。
物質は、小さな粒子が集まってできていると考えられる。我々の体だって、水分子などの分子で構成されており、さらに細かく見れば、原子、もっと細かく見れば電子・素粒子で構成されていると考えられる。ところで、量子論では、粒子は実は波でもあるとされる。bumpのカルマの曲を聴けば、「鼓動」が波動を表すと、無理やりではあるが解釈できる。本当は心臓の鼓動が我々の命・存在を表しているつもりで書かれた歌詞なのだろうけれど、しかし、量子論において波動は物質の存在を表現するものであるから、この解釈はあながち悪くないのかもしれない。どうでもいいことだけど、「重なって揺れる」という表現は、周波数が近い波が共鳴現象を起こすこととみなせるから、物理的メタファーは意識して書かれた歌詞なのかもしれない。
そのあとに続くのは、正規化の話と解釈できる。「正規化されている」とは、波動の存在確率を全空間にわたって積分すれば1になる、すなわち、全空間にいる自分をすべて拾い集めてくると、それは1(過不足なく存在すること)だということである。ただ、この正規化の解釈には少し無理があるかもしれない。2つはちょっと入れない、というところが、積分して2にはならないと無理やりこじつけられるぐらいである。それに比べれば、そのあとに続く0と1の間というところは、もっとわかりやすい。量子論では、実は量子の状態が、0と1の重ね合わせの状態を取りうる*1。観測されれば、0か1のどちらかに収束する。触り合うことも、触覚的な観測であると考えれば、触り合って形が解るのは、量子状態が0か1に収束することと読めなくもない。
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しかし、ここまで書いてきて、やはり思うのは、量子論の話と解釈するのは無理があるのではないかということである。
そもそも、量子論は、あらゆる物質の存在や現象を記述するための学問*2であると考えれば、我々の存在についても当然当てはまる、もしくは親和性がある、わけであり、我々の存在やカルマの存在について書かれた文章は、量子論と親和性があって当然とも思える。
(まあそもそも、ロジックの構造が似ていれば、我々は比喩であるとみなしてしまいがちだが、ロジックというものは普遍的なものである以上様々なものがロジックの構造という点から見れば似ているのであり、作成者の意図がなくとも比喩であると人々に捉えれてしまうという構造があるのではないかと少し思う。)
逆に言えば、カルマの存在が量子論を使えば一応説明できなくもない可能性が感じられる。
実は、量子論で説明される現象の一部は、心の現象と考えればわかりやすい*3。特に、観測されて初めて状態が定まる、というのが心理的で本当に面白い。量子論が心の現象を記述できるかどうか不明だが、少なくとも、非常に面白い学問なのである*4。