自分の生き方を考えるための日記

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言葉:「車の両輪」が暗に伝えるもの

「車の両輪」とは

 二つのうち、どちらを欠いても役に立たないほど密接な関係にあることのたとえ。

車(クルマノリョウリン)とは - コトバンク

 

とある。

実は僕が書こうと思っていたことが既に辞書に書いてあり少々つまらないのだが、もっと話を深めるので問題無い。

今回注目するのは、「どちらを欠いても役に立たない」という部分である。

車の両輪という言葉は、ふさわしい場面で使えば本当に的確な言葉なのだが、実際に使われている場面を見てみると「両方が必要」という程度の意味でしか使われていないことがよくある。

 

車の両輪が進む様子をイメージしよう。もちろん、右と左の車輪のことであって、前と後ろという組み合わせではない。片方の車輪が回っても、他方が回らなければ、車はその場でくるくる回るだけであり、進まない。

「じゃあ両方必要だね」となると思うが、それだけではない。「片方の車輪が回った労力が全く持って生かされていない」ということが非常に重要である。

「両方必要だが、両方ないよりは片方がある方がマシ」という程度の意味ではないのである*1。さらに言えば、「車の両輪」は、「一方の行為の正当性(効果、価値)は何が保証しているかと言えばそれは他方(だけ)で、その逆も成り立つ」というロジックを的確に表現している言葉なのである。

 

「Aの価値をBが保証し、Bの価値をAが保証する」という関係にあるものの例として挙げられるのが、「過程」と「結果」である。

例えばスポーツにおける過程と結果であれば、オリンピックで金メダルを獲ることなどが結果で、それまでの努力が過程であろう。結果がなくては、努力はそもそも過程たりえない。努力という過程の重要性は結果が負っているというのはまあ同意が得られるであろう*2。逆に、結果を、過程なしで得たところで、その結果に意味はあるだろうか?金メダルの重みは物質的な重みにしかならないであろう。その結果の素晴らしさというのは、過程が証明することになる。

自分はよく、「過程より結果が大事だ」と言っている人を見るが、それは間違っていると思う。「車の両輪」という言葉の背後にもロジックとして組み込まれている*3、お互いがお互いの価値を保証する関係にあるもの(「AとB」や「過程と結果」)の間には、重要性や価値の優劣がつかないのである。なぜなら、「AはB以上である(AはB未満ではない)」「BはA以上である(BはA未満ではない)」の双方が成り立つからである。なぜこれを書こうかと思ったかと言えば、過程よりも結果を重視しすぎて過程の重要性に気づけず、その結果、良い結果が得られないというのはもったいないと思うし、結果だけを求めて過程をすっ飛ばせばその結果は表面的なものでしかなく、その「結果」は結果と呼ぶべきようなものではなくなってしまうという一見当然のことを論理的に再確認することが大事だと思ったからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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*1:ただし、「両方必要だ」程度の意味で使うのが間違っていると主張したいのではない。このアナロジー(比喩)は「一方が他方の価値を根本的に保証する」ようなものに用いると非常に親和性が高く、そのような関係までも表現できるので便利であると主張したいだけである

*2:ただし、例えばオリンピックを目指していた人が途中で諦めたところで、それまでの過程は無駄になるか?というかというと、「オリンピックで金メダルを獲ることを結果としたときの過程」としては確かに無駄になったが、行動に対して異なる解釈を与えることは可能であり、金メダルを獲ること以外の将来の何らかの結果と対応関係になり「無駄でない過程」となることはありうる

*3:脚注1を参照