自分の生き方を考えるための日記

最大の読者が私だということを書き手の私は肝に銘じよ

なぜ「美しさ」だけ無条件で価値とされるのか

たとえばWindowsに比べてMacは美しい、みたいなことをいう人があるが、「Macは美しい、だからMacを選んだ」というような論理の運び方がされることが多い。

つまり、美しいから、なぜそれが価値なのか、ということには踏み込まれず、美しいということはすなわちそれ自体価値があるということは当然視され、絶対的な良いものだと主張されるのだ。

人によっては、たとえばものを選ぶとき、「美しさよりも機能面を重視した」というような言い方はなされても、美しさそのものを否定するような発言は通常されない。なぜ「美しさ」だけが、論理的説明を待たずして、絶対的な価値としてこれほど人々に認められるのだろうか。

 

一つに、「美しさ」とは、そもそも「価値があるもの」という意味であり、「美しい」という言葉の中に「価値がある」という意味が内包されているから、「美しいならば価値がある」という言説は論理学における”トートロジー”(「AならばA」という必ず成り立つ命題)であり、美しさとは価値があることそのものであるという説明が可能である。

この説明を受け入れるなら、人や状況によって、そのときに価値があるものというのは変化するから、「美しい」という価値観は人によって違うし、ときによって、美しいものが(それ自体は変化してないのに状況が変化するだけで)美しくなくなったり、逆に美しくなかったものが、状況だけが変化することで、美しくなったりすることがあるということである。

こう考えれば、「◯は美しい」というのは「私にとって、今の状況に対して◯は価値がある」ということを言っていることになるから、「私は◯は価値があると思う」という主張文なのであり、論理的に正しいかどうか判断されるべき「真偽が決まる論理命題」になり得ないから、論理的説明を待つ必要はない(価値観の表明なのだから正しいも何もない)、ということなのだと考えられる。

しかし、「美しい」という言葉を、我々は、そのものに属する性質を指す言葉のように使っているように思う。◯は美しい」という言説自体、今の状況について意識をやらずに、「◯◯=美しい」ということを言っているのだと認識しているように思われる。美しいものが美しく無くなったり、逆に美しくないものが美しいように思えたりということは確かにまれに起こるが、美しいものが急に美しく無くなったりすることを想定した上で、何かを「美しい」と言うなんてことは普通やらない。すぐに美しくなくなるものには、価値がないからだ。だから、美しいように思えたものが美しくなくなれば、「当初は美しいと感じたが、あのときの感覚は間違いだったのかな」と、最初から美しくなかったのだと判断を修正せざるをえないのだ。

 

では、「美しさ」は「その状況で価値がある」ということではなく、「ある程度普遍的に価値とされる」ものだと考えればどうだろう。価値がある状態が一瞬ではなく、ある程度の間持続することを、「美しさ」の要件の一つに数えることにするのである。しかし、ここでわからなくなることがある。「その状況で価値がある」というのは、状況が与えられているから価値があることがわかるが、「普遍的に価値がある」とはどういうことなのか、抽象的で何を言っているのかわからない(わかりづらい)のである。

 

ここで「Aには価値がある」ということを、「Aは美しい。(美しいものは価値がある。)ゆえに(三段論法により)Aには価値がある」と証明した(論理的根拠を与えた)としよう。このようなことはしばしば、実生活でも耳にする。昨日記事に挙げた「終物語第一話」でも、「数学は美しい」ことが、数学を勉強する理由に挙げられている。しかし、これは本当に論理的根拠を(もちろん厳密にではなくとも、ある程度の説得力を持って)与えているのだろうか?

これまでの説明を受け入れるのであれば、美しいものは価値があるのだから、「Aは美しい」「美しいものは価値がある」という二つの命題のうち、「美しいものは価値がある」という方は正しそうである。

しかし、この前提に立つと、「美しい」とは、「絶対的価値がある」ことと同義である。つまり、「Aは美しい」という命題は、「Aは絶対的価値がある」ということが確認されなければ、「Aは美しい」とは言えなくなっているのである。これが正しいことを示すのは、非常に高いハードルとなる。この前提に立てば、「Aは美しい」という部分に、(論理的な穴があるという)疑いの余地が発生してしまうのである。

逆にもし、「Aは美しい」ということは疑わないとするならば、「美しい」ということの指す範囲がかなり広くなってしまいかねない。ゆえに、この場合は、「美しいものは価値がある」ということを示すのに困難が生じかねないのである。

 

ここまで、「美しさ」だけが、論理的説明なく、絶対的な価値として人々に認められる理由を考えてきた。言い換えれば、「Aの価値」を議論している際に、「Aは美しいから」というだけの言説がありうるということの理由を考えてきた。以上の議論で、「Aは美しいから」という言説の背景にある、論理的な説明を考えてきたが、どうも納得いく説明は難しく、論理的説得力のある言説とは言い難いようである。

論理的根拠がなければ、「Aは美しいから」という意見が支持を得うることが説明できないように思える。

しかし、こう考えてみてはどうだろうか。

つまり、やはり◯は美しい」というのは「私は◯は価値があると思う」という主張文である、と考えるのである。そうすれば、既に述べたように、論理的に正しいかどうか判断されるべき「真偽が決まる論理命題」になり得ないから、論理的に正しいのかを判断される立場にはそもそもない。では、論理的な説明が要求される場で、このような言説がありうるのはなぜか、という点に問題が移ることになる。この点だが、この言説は表面上「私は◯は価値があると思う」ということを言っているが、それと同時に、「論理的根拠を必要とする論理を重視するのではなく、各自の価値観や意見を元に話をしよう」というパラダイムシフト(視点の転換)を、その話し合いの場にいる周囲の者に促しているのではないだろうか。つまり、平たく言えば、「◯は美しい」という言葉は、「論理より気持ちをベースにして考えようぜ」という主張文そのものである、ということである。よく考えてみれば、「◯は美しい」という言説は、論理性だけでなく、各自の価値観も重視されているような場でしか耳にしない(そもそも表面上、自分の価値観の表出なのだから、当然である)。そこで、周囲にパラダイムシフトを促す。「美しさが、論理的な根拠なく周囲に認められた」と感じられてしまうのはなぜかと言えば、論理的な議論がなされている場所に、この言説が登場しても、基本的に無批判だからである。なぜ無批判かと言えば、(この言説が表明される前は論理的な議論の場であったにも関わらず、)価値観が重視される視点へのパラダイムシフトが周囲の人々の間で生じた後だからである。「「美しさ」だけ無条件で価値とされる」というのはあくまで見かけである、ということになる。終物語におけるガハラさんの発言も、以上のことを踏まえて考えてみると、学級会における議論を解決へ導きたいという願いの表出であったように思われる。