自分の生き方を考えるための日記

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新しいドラえもんのアニメを見て

新しいドラえもんというのはもちろん、大山のぶ代さんから水田わさびさんにドラえもんの声が変わってからの、アニメドラえもんのことで、声が変わると同時にアニメ制作の方針までも変化したわけだが、どこがどう変わったか、思ったことを書いていこうと思う。もしかしたら、ドラえもんファンからすれば、そんなのわかってるよ、というのもあるかもしれないがご了承いただきたい。

 

・原作のセリフはなるべくアニメの中に取り入れる、ただし問題になりそうな発言は差し替え

このまえテレビで放送されていた、stand by meのドラえもん映画を少し見ていたのだが、原作の「(静香ちゃんが)とうとうのび太のものになるのか」「お嫁に行く」などの表現が、(おそらく)男尊女卑的な表現であると非難されかねないことから、軒並み違うセリフになっていた。しかも、問題がありそうな部分以外は原作のセリフがそのまま使われていたり、ほぼ同じセリフであったりするために、セリフを変更した部分が(原作を知ってる人からすれば)際立ってしまうという構成になっていた。

アニメのドラえもんでも同様で、原作と同じセリフをなるべく使っていきたいという製作者側の意図が伝わってくるが、細かい部分に検閲がかかることでF先生*1が作品に込めた微妙な意図が伝わらなくなってしまわないか、と不安に思うところである。

 

のび太のキャラクター・性格の変化

のび太の性格と言えば、ドジでのろまで頭は悪く…などとドラえもんも説明するが、原作を知っている人はご存知の通り、出木杉の科学的な話をスムーズに理解したり、時折常識にとらわれない素晴らしい発想をしたり、表面的な論理にとらわれず大局的・抽象的・臨機応変的な考え方ができるなど、実は頭が良いのではないか、という面が多分に見られるキャラクターである。

しかしテストを受ければ点数は取れない。おそらくのび太は、本当は社会に大きな貢献をもたらす能力を持ってはいるが、現代的教育の前では「一見」成績の悪い「落ちこぼれ」となり、周囲は誰も評価してくれない、そういうキャラクターなのだと思っていた。

そこにはF先生の、のび太のような評価されない少年の良いところを描こうという意思もあるのではないかと思われるし、もしかすれば、現代的な教育や社会的常識に対する見えない批判が込められていたのではないかとも考えることができる。また、表面的・常識的な考え方にとらわれず、自分でしっかり考えるということの大事さを暗に伝えようとしていたのかもしれない。

しかし新しいドラえもんでは、のび太が「いわゆる倫理的なこと」を大事にする人間として描かれているように感じられる。アニメを見ていると、奥の深い倫理よりも「それが世の中で善いとされているから」妄信的に倫理を大切にしているのび太の像ができているように思える。「表面的な考え方をするのび太像」「倫理的な善を絶対視するのび太像」を放送することは、F先生の「常識的な論理にとらわれないのび太像」が意図していたメッセージに反するのではないか?とも思えてならない。しかし、あえて、「表面的な考え方をするのび太像」を放送することが、視聴者を考えさせることになるし、「形式的な教訓」などの裏に込められた深い意味を考えさせることにもなるから、一概にまずいやり方であるとも言えないようにも思う。

 

・「分かりやすい」ように工夫されたストーリー

見ている人がぼーっと見ていても、子供にでもわかるように、という工夫からか、ストーリーが一部、分かりやすく変更されていたり、キャラクターが説明口調になる場面まである。「分かりやすい」というより、ストーリーの整合性を重視して、ストーリー展開を追いやすくしている。

しかし、見る人に向けて整理されたストーリーを見るのが果たして面白いのだろうか。

それだけではない。

分かりやすいストーリーにするために、ストーリーがパターン化しているし、笑いのネタの表現方法もかなり制約されているように思える。

新しいドラえもんになって、誰に取っても面白いアニメを作ることに対する期待が、かえって原作の面白さを消しているように思えてならない。

*1:ドラえもんの作者、藤子・F・不二雄先生のことである。以下同様。