自分の生き方を考えるための日記

最大の読者が私だということを書き手の私は肝に銘じよ

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言葉について考えることは人生を変えうる(追記あり)

言語は思考に影響を及ぼす、言語のおかげで人類は深い思考ができるようになった、などという説(オピニオン)があるが、これを初めて聞いた頃は、あまりこの説を信じていなかったし、重要なものだとも思わなかった。

というのも、私は基本的には言語をベースとして思考するということをしていなかった(少なくともそう思っていた)からである。言語がなくても人は難しいことを考えることができると思っていたし、まあ云々他にも理由はあるんだけどここでは省略。

しかし実際問題として、この説は、常に正しいかどうかはともかく、場合や解釈によっては正しいと言えると思うし、重要な説であると思う。

 

「あなたは自由ですか?」と聞かれると、あなたか自由なのかどうか、どうやって確認するのだ?

種だねの、なんちゃらの自由という権利は憲法で保障されている。法律も明文化(言語化)され、解釈だって、集団の共通理解として解釈を一元化するために、言語化されて人々の間で共有される。

だから、自由であるか?と考えるなら、えーっと、ここは論理的にここがこうなってるから、、、と言語同士の関係を考えることになるだろう。

いや、自由かどうかなんて、感覚でわかる!という人がいたとしたら、その人には「その自由は本当の自由ですか?」と問いたい。主観的に「自由だ」と感じることは、自分が自由という概念そのものを理解してないことと区別できない。だから、どうしても客観的に自由を考えたくなる。そこで言語を結局使うことになっちゃわないだろうか。

私は、まるで、言語を介さなければ自由を確認することはできない、というようなことを言ったが、まあこれは本当にそうなのか、私には分からない。ただ、ある人が、自由だということを言語で思考することで確信できたとしても、言語化によって言語にできなかった部分が生じたり、それが仮になかったとしても、分節の仕方を言語が規定するので(言葉Aと言葉Bによって、Aという概念とBという概念が区切られ、言葉Aが指しうるa1やa2は同種であるという無意識理解が暗黙のうちに言語により形成されるので)、その人は本当に自由であるのか、くまなく検証したとは言い難いのではないか。

言語という、何らかの制限を持たざるを得ない(思考の)道具を使って思考して結論を出しても、別の言語(や言語以外の思考の道具)を使えばまだ思考の余地があるということになるだろう。

 

思考は人生を変えるというが、これはその通りだろう。

例えば、正義とは何か?と言われればまあ正義とは何か思考するだろうし、そんな質問されなくても、人生を歩む過程で、正義について考えておく必要があるだろう、と思えば正義について思考する。

人生を形作る、人の行為・行動には、思考が影響する。その思考は言語に影響されるなら、思考における言語の扱われ方について考えることは、人生に影響する。換言すれば、言葉について考えることは人生を変えうる。

 

ここで言語の遮蔽性、という昔聞いた話を思い出す。それこそ、何かを言語化することで、言語化されていない部分がかえって意識されなくなってしまうということである。例えばある人の顔写真をもらって、その人の特徴をぼんやり覚えるのと、言語化して(例:髭が濃い、など)覚えるのとでは、似た顔写真からさっきの写真を選べと言われると、前者のほうが正答率が高いそうだ。髭が濃い、という言葉にしてしまうことで、髭が濃いような様々な顔が一つのグループに束ねられてしまい、細かい差異が見えなくなってしまうのである。

これは非常に怖い話である。言語化して考えることってのは、感覚としてはしっかりくまなく検証した感覚になるにも関わらず、逆説的に、言語化することがしっかりとした思考から遠ざけてしまいかねないということだ。

言語について考えるべきことはたくさんある。

文系に進学しておくべきだったかもしれない(泣)

 

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追記:この話で触れるべきことを触れていなかった。この言語の問題の分かりやすい例として、未経験かどうかを気にする、って話には言及すべきだった。

誰かと性行為をしたことがある、まだしたことない、っていう区分は、したことない人の中にはそれをコンプレックスだと思う人もいるぐらい際立っており、まだしたことない側から卒業ししたことあるがわに行くために風俗に行く人もいれば、ナンパする人もいる。あるAさんのした経験と、Bさんのした経験が同じ、なんてことは全くない。多種多様な「経験の中身」があるのに、同じ言葉で各人の行為が同一の集合にグルーピングされてしまうので、未経験である人は「私は他の人の知っている何かを知らないんだ」と思ってしまったりするし、経験した人は「人並みの経験はした」と思ってしまう。本当は、経験した、って人たちは、その経験したことを表現する言葉が同じなだけであって、実際に経験したことというのは全然違うにも関わらず。卒業するためにどんな手段を使ってもいいから卒業したい、という人の、その行為の価値に対しては疑問を挟まざるを得ない。

これを読んでくれれば、自分のなした行為、なすべき行為、さらには人生に、言語がかなり影響するのだと納得してくれるだろう。

しかし、本文ではあえて書かなかったが、かえって言語で考えることが重要であるってことだってある。

言葉があるおかげで、言葉にして考えるということができるようになった。言語で考えることに限界はあるとは思うが、じゃあ言語が全く役に立たないものなのか、というと、そんなことは全くもってない。厳密に自分の意図したことを100%表現できるわけではないにしても、いま現にコミュニケーションの道具として使われているし、間違って伝わることを覚悟の上で、誰もが言語を使う。また、自分自身の思考で言語を使う時や、とても仲の良い人と言葉を交わす時は、その言葉の意味をかなり正確に理解したうえで使うことが多い。そのほかにも言語で考えることが意味のある場合というのは、シンボリック(言語的に)に確信を得たい場合が考えられる。要は、考えていることが正しいのかどうか、という真偽よりも、その考えていることを正しいと信じるかどうか、確信が持てることかどうか、ということの方が重要なことだってある。

例えば、あなたがご飯を食べたいとする。そしてご飯を食べる。だが、目にはご飯だと見えているそのご飯(シンボルとしてのご飯)はもしかしたらご飯(実物としてのご飯)ではないかもしれない。じゃあご飯を食べる、という行為には意味がないのか?というと、そんなことはない。ご飯を食べるのは、それを味わったり、お腹を膨らせたりするためであり、その認知の作業だってシンボリックだからである。

ちょっと上の例は言語の例っぽくはないが、本質的には同じであり、言語上で確認ができること自体が目的であれば、言語で考えてかまわないということだ。言語上で確認できればよいのかどうかなんてほとんど我々は気にしないけれども、実際にはそういうものがたくさんあると思う。

しかし、言語上で考えればよいことについても、言語の限界や、言語を使う上で注意するべきことがあることの存在を理解し、言語的思考の罠にかかっていないか、注意しなくてはならない。

言語を使ってこの記事において、言語の問題が指摘できるということは、そういうことを意味する。