制約は自由の裏返し
制約は自由の裏返し*1と言うと、ある意味嘘になってしまうが、どうもそう捉えておいた方が都合がいいような気がする。
例えば、勉強は何のためにするのか?と聞かれて、「自分の可能性を広げるためです」という人がいる。これはある意味では正しいとあえて先に言っておくが、普通に考えれば間違っている。というのも、あなたが今何をするにせよ、将来できることの可能性は日々小さくなるからである。勉強をひたすらすれば、勉強以外のこと(例えばスポーツ)は同時にはできないわけで、スポーツ選手などになる可能性はどんどん狭まるわけである*2。
だから「勉強が可能性を広げる」という言葉は、勉強する前と後で比べるのではなく、自分が勉強しなかったケースと自分が勉強したケースを想像し、どちらの方が将来の可能性があるかと考えている、と捉えれば納得できる。
ここで、将来の自由(可能性)を広げるために、今の自分に制約をかけていると考えられるだろう。
そもそも、自由とは何か?
なに一つの制約もない状態、と言ったところで、この世の中に存在する以上*3、あらゆる制約から逃れることはできない、ということは自明である。
じゃあ、もう少し文脈依存した、「自由」を手に入れるにはどうすればよいか?
それは、うまく、制約を設けることだと思う。
つまり制約は自由の裏返しなのである。