自分の生き方を考えるための日記

最大の読者が私だということを書き手の私は肝に銘じよ

制約は自由の裏返し

制約は自由の裏返し*1と言うと、ある意味嘘になってしまうが、どうもそう捉えておいた方が都合がいいような気がする。

例えば、勉強は何のためにするのか?と聞かれて、「自分の可能性を広げるためです」という人がいる。これはある意味では正しいとあえて先に言っておくが、普通に考えれば間違っている。というのも、あなたが今何をするにせよ、将来できることの可能性は日々小さくなるからである。勉強をひたすらすれば、勉強以外のこと(例えばスポーツ)は同時にはできないわけで、スポーツ選手などになる可能性はどんどん狭まるわけである*2

だから「勉強が可能性を広げる」という言葉は、勉強する前と後で比べるのではなく、自分が勉強しなかったケースと自分が勉強したケースを想像し、どちらの方が将来の可能性があるかと考えている、と捉えれば納得できる。

ここで、将来の自由(可能性)を広げるために、今の自分に制約をかけていると考えられるだろう。

そもそも、自由とは何か?

なに一つの制約もない状態、と言ったところで、この世の中に存在する以上*3、あらゆる制約から逃れることはできない、ということは自明である。

じゃあ、もう少し文脈依存した、「自由」を手に入れるにはどうすればよいか?

それは、うまく、制約を設けることだと思う。

つまり制約は自由の裏返しなのである。

*1:制約は自由と紙一重、という意味ではない

*2:厳密にはそうとは限らない。ここでは、「日々可能性は狭まっていく」ということの説明として大雑把な具体例を書いたまでで、この具体例部分の細かい議論は気にしないでほしい。

*3:じゃあ死ねば自由になれるか?と思うかもしれない。死んだら自由になるかは分からないが、死なずに自由を模索する方が良いと私は思う。少なくとも、こんな記事を読んだだけで死のうと思うなら、他の記事を読んで生きようと思うこともできるはず。