自分の生き方を考えるための日記

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「批判的思考」が教育現場で教えられる現代で、他者を批判して思考停止する人々を大量に生み出しているジレンマ

タイトルでほとんど書いていますが

 

 

最近の投稿に引き続いて、同じようなテーマで書きます。

nk.hatenadiary.jp

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批判的思考・批判的に読むということは、非常に大事なことである。

その理由はときに、「騙されないため」などと教えられる。

これはその通りである。

 

このようにして近年、批判的思考が教育現場で教えられてきているわけだが、残念なことに現代では、他者を攻撃する目的で批判がなされ、そのような場では攻撃者も傍観者も含めて多くの人たちが、思考停止して状況が見受けられる(ただ、「批判的思考の教育が現場をもたらした」という因果関係が成り立つかはわからない)。

 

そもそも議論は本来、相手を打ち負かして勝つためにやるものではない。

 

自分の側が議論の流れ上優勢であっても、相手が立場上言えないような主張がある可能性もあるし、言語化しづらい部分で困難が生じることもある。それはお互いに配慮をするべきであるし、もっと言えば、自分たちはお互いに「正しい」結論にたどり着くという共通目的を持っていることを意識し、助け合って議論を進めていくべきである。

 

議論に勝ったと思って思考停止する人は、自分が「自分自身の言葉や状況に」騙されている(正しい結論に至れていない)ことをもっと重く受け止めるべきである。

 

 

教育現場で教えられるべき「批判的思考」や「他者の意見を批判的に聞くこと」というのは、実は、何も「他者に騙されないように」「他者の意見が間違いかもしれないと思って聞くこと」ではない。むしろ「批判的思考」をする上では、相手の意見を好意的に受け取るべきである(批判的思考 - Wikipedia)。

他者の意見を都合よく解釈するべきでもないし、誤った解釈をしてないかという配慮も大事である。批判的に考えるというのも、自分の解釈などに対しても批判的であるべきだし、慎重に判断を下すべきなのである。

 

日本における社会の分断は

EU離脱、トランプ新大統領当選と、主に海外での社会の分断が話題となった一年であった。ISや、発展途上国での内紛はどこか他人事のように思えていたが、先進国であるイギリス・アメリカという国で、事前の予兆少なくこのような現象が立て続けに起きたことには注目せざるをえない。

 

 

日本における社会的な分断はどうだろうか?

 

イギリスやアメリカに見られたような、政治的なこの手のどんでん返しはあまりない気がする。理由は複数ある。

まず、EU離脱やトランプの件は、やはりイギリスやアメリカは油断していたと思う。大半の人はもう一つの選択肢が選ばれると思っていた人が多いように思うし、「ギリギリ勝てばいいや」と思っていたように思う。日本人はやはり、「万一のことがないように」と自分の責任を全うする大人は割合としては多いように思う*1

次に、アメリカ人やイギリス人は、自分の不遇を、選挙の投票で示したかった人が多いと思われるからである。EU離脱も、現状に呆れていることを示したいが為に(離脱は絶対にしないと思っていたから)離脱はしたくないけど離脱に投じたという人もいたと聞く*2。アメリカについても、現状に対する不満がトランプ氏の勝利につながったと分析する人は多い。一方日本人は、やはり結果的にどちらが勝ったほうが良いだろうかと、冷静に分析する人が多いように思う。少し前の都知事選で、粉末候補にほとんど票が入らなかったことに私は少し安心した(いや、この状況が今後も続くとは限らないので安心はできない。アメリカやイギリスでさえ、今までの選挙結果から今回の結果は予想できなかったのだから)。

 

かなり日本社会は特殊だと思う。

では日本には社会的分断がないかというと、そんなことはないだろう。

日本人は「本音と建前を使い分ける」というが、それは表面的には分断がないように見えても、根本的にはかなり分断している可能性を示唆するものである。実際、表面的には仲が良いが、実際はお互いにそれほど仲が良くないと自覚しているという集団に所属した経験がある人は多いのではないだろうか。

これはもしかしたら、これから迎える社会的な分断の危機には強いのかもしれない。そのようにも思える。というのも、表面的には絶対に分断しないという体裁を保ちながら、しかし本音の面では分断的になることも多少は許すという、力をうまく逃す構造(いわゆるあそび(ゆとり)の部分)があり、柔らかく形状を保っているようにも見えるからである。

ただ、いまやインターネットがこれほどまでに発達した。インターネットは、主に文字などの情報を介して人々が繋がる場である。直接会うよりも、伝わる情報は限りなく少ない。建前と本音のうち、建前の部分ぐらいしか伝わらないだろう。もちろん、本音を書く人もいるだろう。しかし、先日のエントリーで話題にした「炎上」は、そのような本音に対する論理的な批判であり、それは社会の「建前」的部分を保存する作用のように思える。やはりインターネットは建前のほうだけが伝えやすいように作られているように見える。自分と違う立場の人たちに関する情報のほとんどをインターネットで得るような時代には、もはや違う立場の人々の本音は知り得ないのではないか。この作用が過度に進めば、「本音と建前」で柔らかく保たれていた社会の構造は、建前一色にカチカチに固まってしまうのではないだろうか。

しかし、よく考えてみれば、今までも、自分たちと違う立場の人々の本音を知り得る場はほとんどなかったかもしれない。知り得る情報の大半は建前だっただろう。

そうはいっても、インターネットは、明らかに建前を建前として受け取れるリアルでのやり取りと比べれば、「正しい情報を得た」と錯覚してしまいがちで(特に日本人はネットの情報を信じがちと言われるそうだ)、そのリスクがかなり大きいように思う。

私は以前から書いているように、インターネットは人類には早すぎたと思っている。それでも、今からインターネットのない世界にすることは不可能である。現代を生きる一人一人が、このような社会の「本音と建前」について、注意深く見極めをしていくしかないのではないかと思う。

ここまで論じてきたような時代の流れによってもたらされる不均衡は、見方によっては、「本音と建前の使い分け」という部分で、その大半は「建前」における表面的な絆によって回収されるだろう、という楽観的な見方もあるかもしれない。しかし私は悲観的に見ている(見てしまう)。このような現象を、全て「建前における表面的な絆」と解釈するのは、建前と本音のアンバランスをもたらし、社会の仕組みが破綻してしまいかねないと思う。

インターネットには今後も、嘘も、本当のことも、本音も建前も書き込まれるだろう。それは今までリアルの世界でできていたように、人を見て正しいかを判断することは難しい。我々はインターネットの情報を過度に信じすぎず、しかし適切にインターネットの情報を使って、判断をしていかなくてはならない(そしてインターネットで情報を発信する側も、相手に正しく伝わらなくても仕方がないと思って情報を発せざるを得ないだろうし、情報を発信する側と受け取る側、お互いの配慮が必要となるだろう)。また、必要に応じてリアルの世界で行動に移し、インターネットから得られる情報を補完していかなくてはならないだろう。

 

日本社会は(日本社会だけではないだろうが)、本音で言うと、様々な面で分断しているのだろう。高齢者と若者、男女、先日hatenaのホットエントリであった大卒と高卒、もっと細かくみれば、一人一人意見が違うことを皆自覚して生きているだろう。見かけ以上に、日本社会は多様な社会で、それが表面に現れにくい(現れないようにしている?)社会なのだろう。この多様性を保護するためのコミュニケーション技術は、一人の力では作り出せないものだろう。多少は日本でも、社会が揺れる(また各人の周りで何かしらイベントが起こる)だろうが、そのときに各人が適切に情報を発信し正しく情報を受け取り、自らの社会の多様性を自らの手で勝ち取ることが求められよう。自らの不遇を訴えるだけでは、思わぬ結果を招くことを胸に刻んでおかねばなるまい。

 

ここまで適当に思いつくまま、色々書いてきたが、新年明けましておめでとうございます。

今年も今年を共に作って生きましょう。*3

*1:完全に僕の主観だが

*2:割合は不明なので説得力はないが

*3:この記事を「2017年にやりたいこと」という記事として投稿するのは迷いがあるが、それでも投稿するのは、私はこのような投稿を見ると顔がほころびるからである

今週のお題「2017年にやりたいこと」

2016年を流行語から振り返る

2016年はどんな年だっただろうか、まずは流行語から振り返ろう。

 

2016年の流行語は「神ってる」だったが、今年は「流行った」と感じるものが多い年だったと個人的には思っていて、流行語が豊作の年だった。お堅いイメージの政治界隈もインパクトのあるイベントがいくつあったからか、ノミネート語に目立つ*1

 

新語・流行語大賞(ノミネート語)

 

 

しかし僕がこのノミネート語の多くから共通してイメージするのは、「大衆による安易な合意形成」のイメージである。

 

ネット上での炎上に関連したノミネート語も見られるが、個人的には「炎上」は非常に危険な現象だと考えている。

具体的には話が非常に長くなってしまうのでここでは書かないが、すごく簡単に言うと、(すべての炎上がそうとは言わないが、)暴力的な現象になりかねない危険な現象だと考えている。

さらに一つ怖いのが、炎上が多くの場合「正義の名の下」行われること、そして、止めるのが難しいことである。

そして、「止めるのが難しい現象(炎上)」を目の当たりにしたとき、本来はそれが「本当に掲げられている正義が真っ当なもので炎上している」のか、「止めるのが難しいから炎上している(本当は炎上は正しい行為ではないが、それを実効的に止める方法がないので誰も止めていない)」のか、大衆は慎重になり判断するべきである。しかし炎上する問題は大概「表面的には炎上させるべき」要素を持っているものが多い。また、慎重になっている大衆は答えが出るまで発言を控えるだろう(そしてこの傍観行為を非難するのもおそらくお門違いであろう)。

つまり、表面的に「炎上すべき」と判断されるものは、発火点に達すれば誰にも止められず燃え上がってしまう。

 

暴力をどう定義するかにもよるが、暴力の定義を満たすケースもあるように思う。

 

ここまで、炎上現象が悪いものであるかのように書いてきたが、これは非常に複雑な問題で、必ずしも「炎上」が「「悪いもの」から生ずる現象」であるとは言い切れないと考えている(ここでは長くなるので書かないが)。このような点も、解決を難しくしていると考える。

 

また、私は、このような「炎上現象」の悪影響が他の場面にも飛び火していかないか非常に懸念している。似たような現象がリアルの世界でも起きないか心配である。

 

そもそも、世の中には「伝わりやすいものは広まりやすい」というごく当然のルールがある。「世の中に広く広まっているものは正しいものなのだ」という考えをむやみやたりに盲信すべきではないだろう(ただし次に言うことも本当に問題を複雑にしていることなのだが、世の中にはあえて盲信するべきものもないわけではないと思う)。

私は、やはり一人一人が「何が正しいか」を、大衆の判断に委ねず、自ら判断するのが理想だと考えるし、一人一人が自信を持つべきだと考えている。

もちろんその判断は、大衆の判断よりは(少なくとも表面上は)劣るだろう(大衆の判断は多くの目に晒されるため、少なくとも表面的に問題がある部分は修正がされて総意となっていくから)。さらに、この困難は、個人がなんとか解決しなくてはならない問題である。ただ、最悪、考えたことを行動に全く反映させなくても、最初から何も考えず大衆に判断を任せるのと、自分で考えるのは大きな差があると考える。

 

そして一つ言えることがある。他者による承認ではなく、自分で自分の価値を保障できる人は必ず美しい。

 

自分の価値を自分で保障できるかどうかと、「何が正しいか」を他者に委ねるか自分で考えるかは、密接に関わっていると思っている。

ちまたでは、「承認欲求」なんて言葉も数年前から流行っているが、最近見られる「大衆による安易な合意形成」の傾向も、「承認欲求」の流行りも、人々は自分自身を自分で肯定するということができなくなりつつあるのではないかと思えてしまう。

 

また、もう一つ言っておきたいことがある。理想的には上のように、一人一人が自分で考え判断するような社会が望ましい。しかし現実的には、「炎上」はなくならないと思うし、これからも過剰な「制裁」が「表面的に非のある人々」や「炎上の口実を与えてしまった人々」に向くだろう(実際には本当に叩かれるべき連中はこういうことに敏感なので安全圏に逃げているものである)。そして、「炎上」をなくす方法は私の考え付いた方法はただ一つしかないし、それはシンプルな方法で、「長い年月を経て、何人もの炎上の犠牲のもと、炎上の暴力性が世の中に広く知られることとなり、炎上はよくないという社会的合意が形成されること」以外にないと思う。炎上は「何かしら、炎上で批判された側に非がある」ことになっているので、炎上が起こらなくなる程度に炎上の暴力性が広く知られるには、まだまだ長い時間がかかる。多くの人にとっては、自分とすごく近い意見の人が炎上で攻撃されているのをみて、初めて疑問に思うぐらいなのではないだろうか。もしかしたら、多くの人はたとえそのような場面に遭遇しても、「自分の考え方は間違っていたんだな」と自分の考えを修正してしまうかもしれない。これは本当におそろしい社会だと思う。判断の正しさが最優先され、自分で考え判断した人たちが損をする世界では、誰も自分で判断しなくなり、広まりやすさ(表面的な正しさ)と正しさの区別がつかなくなる。もしかしたら、一部の政治の世界では(トランプさんが頭をよぎると言ったら多少あれだが)、すでに始まっていることなのかもしれない。

もちろん後半は僕の憶測も入った持論だが、2016年がこのような現象の始まりの年とはなって欲しくないという思いで来年を待つものである。

*1:まあいくつか政治関連の言葉が毎年ノミネートされてはいるが