自分の生き方を考えるための日記

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2016年を流行語から振り返る

2016年はどんな年だっただろうか、まずは流行語から振り返ろう。

 

2016年の流行語は「神ってる」だったが、今年は「流行った」と感じるものが多い年だったと個人的には思っていて、流行語が豊作の年だった。お堅いイメージの政治界隈もインパクトのあるイベントがいくつあったからか、ノミネート語に目立つ*1

 

新語・流行語大賞(ノミネート語)

 

 

しかし僕がこのノミネート語の多くから共通してイメージするのは、「大衆による安易な合意形成」のイメージである。

 

ネット上での炎上に関連したノミネート語も見られるが、個人的には「炎上」は非常に危険な現象だと考えている。

具体的には話が非常に長くなってしまうのでここでは書かないが、すごく簡単に言うと、(すべての炎上がそうとは言わないが、)暴力的な現象になりかねない危険な現象だと考えている。

さらに一つ怖いのが、炎上が多くの場合「正義の名の下」行われること、そして、止めるのが難しいことである。

そして、「止めるのが難しい現象(炎上)」を目の当たりにしたとき、本来はそれが「本当に掲げられている正義が真っ当なもので炎上している」のか、「止めるのが難しいから炎上している(本当は炎上は正しい行為ではないが、それを実効的に止める方法がないので誰も止めていない)」のか、大衆は慎重になり判断するべきである。しかし炎上する問題は大概「表面的には炎上させるべき」要素を持っているものが多い。また、慎重になっている大衆は答えが出るまで発言を控えるだろう(そしてこの傍観行為を非難するのもおそらくお門違いであろう)。

つまり、表面的に「炎上すべき」と判断されるものは、発火点に達すれば誰にも止められず燃え上がってしまう。

 

暴力をどう定義するかにもよるが、暴力の定義を満たすケースもあるように思う。

 

ここまで、炎上現象が悪いものであるかのように書いてきたが、これは非常に複雑な問題で、必ずしも「炎上」が「「悪いもの」から生ずる現象」であるとは言い切れないと考えている(ここでは長くなるので書かないが)。このような点も、解決を難しくしていると考える。

 

また、私は、このような「炎上現象」の悪影響が他の場面にも飛び火していかないか非常に懸念している。似たような現象がリアルの世界でも起きないか心配である。

 

そもそも、世の中には「伝わりやすいものは広まりやすい」というごく当然のルールがある。「世の中に広く広まっているものは正しいものなのだ」という考えをむやみやたりに盲信すべきではないだろう(ただし次に言うことも本当に問題を複雑にしていることなのだが、世の中にはあえて盲信するべきものもないわけではないと思う)。

私は、やはり一人一人が「何が正しいか」を、大衆の判断に委ねず、自ら判断するのが理想だと考えるし、一人一人が自信を持つべきだと考えている。

もちろんその判断は、大衆の判断よりは(少なくとも表面上は)劣るだろう(大衆の判断は多くの目に晒されるため、少なくとも表面的に問題がある部分は修正がされて総意となっていくから)。さらに、この困難は、個人がなんとか解決しなくてはならない問題である。ただ、最悪、考えたことを行動に全く反映させなくても、最初から何も考えず大衆に判断を任せるのと、自分で考えるのは大きな差があると考える。

 

そして一つ言えることがある。他者による承認ではなく、自分で自分の価値を保障できる人は必ず美しい。

 

自分の価値を自分で保障できるかどうかと、「何が正しいか」を他者に委ねるか自分で考えるかは、密接に関わっていると思っている。

ちまたでは、「承認欲求」なんて言葉も数年前から流行っているが、最近見られる「大衆による安易な合意形成」の傾向も、「承認欲求」の流行りも、人々は自分自身を自分で肯定するということができなくなりつつあるのではないかと思えてしまう。

 

また、もう一つ言っておきたいことがある。理想的には上のように、一人一人が自分で考え判断するような社会が望ましい。しかし現実的には、「炎上」はなくならないと思うし、これからも過剰な「制裁」が「表面的に非のある人々」や「炎上の口実を与えてしまった人々」に向くだろう(実際には本当に叩かれるべき連中はこういうことに敏感なので安全圏に逃げているものである)。そして、「炎上」をなくす方法は私の考え付いた方法はただ一つしかないし、それはシンプルな方法で、「長い年月を経て、何人もの炎上の犠牲のもと、炎上の暴力性が世の中に広く知られることとなり、炎上はよくないという社会的合意が形成されること」以外にないと思う。炎上は「何かしら、炎上で批判された側に非がある」ことになっているので、炎上が起こらなくなる程度に炎上の暴力性が広く知られるには、まだまだ長い時間がかかる。多くの人にとっては、自分とすごく近い意見の人が炎上で攻撃されているのをみて、初めて疑問に思うぐらいなのではないだろうか。もしかしたら、多くの人はたとえそのような場面に遭遇しても、「自分の考え方は間違っていたんだな」と自分の考えを修正してしまうかもしれない。これは本当におそろしい社会だと思う。判断の正しさが最優先され、自分で考え判断した人たちが損をする世界では、誰も自分で判断しなくなり、広まりやすさ(表面的な正しさ)と正しさの区別がつかなくなる。もしかしたら、一部の政治の世界では(トランプさんが頭をよぎると言ったら多少あれだが)、すでに始まっていることなのかもしれない。

もちろん後半は僕の憶測も入った持論だが、2016年がこのような現象の始まりの年とはなって欲しくないという思いで来年を待つものである。

*1:まあいくつか政治関連の言葉が毎年ノミネートされてはいるが

等確率なルーレットでの賭けはなぜ大数の法則で必勝的でないのか

q.hatena.ne.jp

 

確率のお話だ、わーい。

 

回答しようと思ったけど、匿名回答2号氏が自分がだいたい書きたいことを書かれていたのと、これ以上書くとかえって混乱を招くと思い我慢。

 

上で問題になっていることと論点はあまり変わらない次の問題を考えることにする。

「確率1/2ずつで赤と黒が出るルーレットで賭けをする。黒と赤のうち、あまり出てない方に賭けることにする。大数の法則から、十分回数を増やすと、黒:赤=1:1の確率で出るはずだから、黒があまり出てないなら、黒が出やすくなる気がするが、実際はそうならない。このパラドックスをどう説明するか。」

 

何通りも説明の仕方が考えられるが、自分が昔この問題を考えた時に考えたことを書く(直観的な説明である)。

 

例えば既に黒が1回、赤が9回出ているとする。ここで黒が出る確率も赤が出る確率も1/2である。

(にも関わらず、黒が出る割合は、回数を増やすと1/2に収束することを説明する。)

なぜなら、次(11回目)に黒が出たとしよう。

すると、黒が出た割合は1/10から2/11に増える。ここでの割合の増加分は、2/11から1/10を引いた+9/110である。

次にもし赤が出たとすると、黒が出た割合は1/10から1/11に減少する。ここでの割合の増加分は、1/11から1/10を引いた-1/110である。

 

つまり、回数の観点から見れば、黒が出る回数が+1か赤が出る回数が+1になるわけで対称性は保証されているが、

割合の観点から見れば、あまり出てない色(黒)が出たときの(黒が出た回数の)割合の増え分の方が、既にたくさん出た色(赤)が出た時の(黒が出た回数の)割合の減少分よりも大きい。

ここで、対称性が崩れており、その対称性の崩れ方は、黒が出る割合が1/2に収束する方向に崩れている。

 

以上の説明で私自身は納得したがみなさんはどうか。

今までの記事をまとめたページを作りました。

今まで投稿した記事を少し整理して、おすすめの記事を紹介するページ(http://nk.hatenadiary.jp/entry/2014/07/31/000000)を作りました(ウェルカムページ風になっています)。

 

興味のあるテーマ別に記事をまとめたもので、テーマの一言紹介のようなものもつけたので、それぞれの記事がどういったテーマを背景に持って書いたのか、わかりやすくなったと思います。

ぜひ一度見てみてください。

 

nk.hatenadiary.jp